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キリトリセン

2009-01-12

| 母 - キリトリセン のブックマークコメント

「母」という存在は人によって「好き」「嫌い」に分けられている。

母といわず人間そのものについて、そうなんだろう。

私には「好きハハ」と「嫌いハハ」がいる。

二人は別人です。

私の母は、私が中学3年の時にガンで亡くなった。

14 歳だったけど、その年15歳になるので「中学3年」の時と表記。

母は私が小学6年あたりに体調不良を訴え、中学になって入退院を繰り返し、

3年の七夕の日に亡くなった。

自宅が自営業だった為、母はずっと自宅にいた。

子供時代は共働きの人より親との接触はあった。

親の仕事を目の当たりで見る分「仕事する母」をも知ってる。

家事は兄弟で当番を決めてやってたりもしたし、

業種が「職人」の要素がある為に従業員が雇えないので、仕事の手伝いもしてた。

小学校から中学校にあがり、まったく環境がかわる状況の時に母が倒れた。

最初は「お母さんがいない分、頑張るぞ!」なんて、家事も仕事も学校も頑張った。

けど、いつになっても変わらない現実。

入退院は幾度となく繰り返す。

これっていつまで続くの?

仕事や家事で学校を休む事も多かった。

授業についていけず、成績がどんどん落ち込んでいった。

部活も一時休部した。

思春期絶好調もあってか、この苛立ちは母へ向けられた。

直接何も言わなかった。

ただそっけなくなり、看病に行く回数が減った。

母は、包装紙の裏に私宛にメッセージを書いてよこした。

色々書いてあったけど、内容は「頑張って早く退院するから」という事だった。

その時点で、父は母の余命を知っていた。

のちに母は意識不明になり、自呼吸が出来ず、

親族は24時間体制で看病が許可された。

私も徹夜で看病した。今更だった。

母は眠りながら、時折涙を流した。

「お母さん」と呼んでも、返事はない。手を握っても、握り返さない。

「……お母さんじゃないみたい」

そう思った時、気づいた。

私が反抗してしまったのは「お母さん」をやってくれてなかった事に対してだった。

そして「お母さんを“やる”って、どういう事よ!?」と呆然としてしまった。

ご飯を作って、仕事をして、家にいる人を「お母さん」としていた。

病に倒れ、ベッドに横たわってる母を見たくなかったんだ。

私は末っ子なので、母の余命を一番遅く知らされた。

ショックが大きく無いようにという配慮だったが、

それは残りを見届ける期間も一番短い事だ。

たとえ、なんとなく気づいていたとしても。

母との最後の会話を覚えていない。どの時が母との最後だったか分からない。

ただ確実なのは、母が見た私の最後の姿は、笑ってなかった。

どこまでも認められなかったのか。

久し振りに学校に行った直後に「危篤」の連絡が入り、

皆心配してる時に「じゃーね」と帰った。

帰宅し、おばさんに「今日か明日だから準備して」と言われ、

「……まだ生きてるのに」と、母が死ぬ準備をした。

訃報が来たとき、姉は悲鳴をあげたのに、「わかった」と言って、病院に行く支度をした。

お葬式では泣かなかった。

「元気そうで安心したよ」なんて言われた。妙に冷静だった。

何日かして。

例の手紙を父に読ませた。

母直筆のもの。私しかもらっていないものだった。

姉なんかは看病に行っても「しっかりしなさい」等、厳しい事を言われ、

手紙どころか、直筆モノも無いと言っていた。

読み返した。

もう一度読み返した。

そして、腑に落ちた。


「大切な人を失った」


その時初めて大号泣した。

あまりに号泣したので、父親が私の部屋に入ってきた。

もの凄く狂う位に泣き、その日は父の隣で寝たはずだ。

ただ夢中だったのか、ただ混乱していたのかは分からない。

けど、今でも思うのは、

自分中心に考えてた。

周りを見ていなかった。

目の前しか見てなかった。

ずっと先を見てなかった。

私の人生史上の中で一番後悔してる事だ。

この事を想うだけで一気にこみ上げる。

人は「後悔、後悔」と言うけど、本当の後悔は気軽に「後悔」なんて言えない。

正常でいられない。この気持ちから逃れたい。

望みが叶うなら、あの時に戻して欲しい。即効。もう、こんなの嫌だ。

だから後悔であって、もうこんな気持ちを味わいたくないから、後悔したくないんです。

母が居なくなってから、色々あった。

年齢の近い兄弟は受験だの就職だのが毎年繰り返され、

家の仕事も手伝う、家事もする、いつまでも。

各自が疲れてた。疲れきってるけど続行しなければならない。

みんな10代はじめからこんなんだった。

私は高校から神経性胃炎から他の病気やらが次々出てしまった。

父も1度入院した。

病院から逃れなれなかった。

徐々に「家」に対して嫌気がさしてしまった。

「家族」が、狂いだしてきた。

試行錯誤が繰り返され、私が家事を「バイト」として担当することになった。

姉や兄は就職となれば万全に家事ができるわけもなく、それでなくても新人だ。

私もこのカタチになって吹っ切れ、週に2日の夕食の準備以外は家事にいそしんだ。

やっとうまく流れてきた所で、私の就職の時期がきた。

みんなが思った。「これからどうなるの?」

父はもう、本当の限界を感じていたのだろう。

再婚することになった。

理由は、わかる。

父は母というポジションを、家族の「犠牲」な存在にしたくなかったんだろう。

理由は、わかるよ。

姉、兄は賛成した。大人としての「承諾」だった。

私は反対した。

幼少ならまだしも、今更と思った。

恋愛感情があってのものなら、口出ししないがそうじゃなかった。

何よりも「母親」という存在を痛いくらい実感してる私にとって

母という「職業」に就きに来るように思えて、どうしても嫌だった。

人は、職業じゃない。

でもそれは実行された。

再婚者は母のイトコだ。

でも、どんな人か知らない。小さい時に1回くらい会っただけだ。

母のせいで家族が! ってならないように、家事をしてた。

完璧じゃ無かったけど、少しでも守りたかった。

でも、母の席に座っているのは別人だ。

生活習慣も違う他人が突然家族となり、

ある程度予想してた生活のずれや、人間関係のずれが見え隠れした。

それは恋人同士で結婚して生活をし始めたら、また新たに見えた部分や

結婚はゴールじゃなく、障害物競争のスタートみたいなものと同じく、

トラブルはあって当然。それは別に抗議しない。

ただ、うちの場合は「世間体」も引っかかってきた。

ありとあらゆる葛藤が襲いかかり、私は精神的にめちゃくちゃになっていった。

左手をカッターでズタズタに切り裂いた。

意識がもうろうとしてて、バイク事故も起こした。

私の20歳の誕生日は病室だった。

吐き気がものすごく、でも吐けず、トイレの近くで布団にくるまって

いつでも吐けるようにうずくまってた。

家にも帰らなくなった。

父としては義母と私が一番仲良くなってくれれば、と思っていたそうだ。

私が一番母親と接する時間が無く、受験やら就職やら

いつもタイミングいいんだが、大事な時期に限って事の波が大きかったし、

体の件で、兄弟の中で家に長く残る事になるであろうと危惧していたから

暮らしていく以上、家族になって欲しかったそうだ。

もう、意識と体がかみ合わない状態だった。

正論だけど、異議を唱える理由もあったし、認められない自分が嫌で

我慢してまで従ってたら「仮面」でしか無いじゃないかとか。

・・・・・・このままでは今度は自分以外を傷つけてしまう事になりそうだった。

・・・・・・・・・・・・・・・止めなくては。

私は家を出る決心をした。

ある意味、逃げもあった。

けど、それなりのリスクを背負うものじゃなければ家を出る意味が無かった。

10 代をずっと家の事で終わって、自分は一体何なんだ? と思ってたから

誰も自分の事を知らないところで、どの位やれるのか

いい機会だから、納得して自分をたたき出そうと思った。

義母の事はいつか認められる時期も来ると思うから

その時間を持たせて欲しい。かえって離れた方が話せる事もあるかと思う。

こちらの言い分を全て言い、納得してもらい、私は上京した。

わたしが居ない間、色々あったらしい。

姉がアパートに来て「東京に来たい」とつぶやいた。

当時、上京生活もかなり過酷だったので

「目標がないとここではやっていけない」といった。

考えてみれば変だった。姉の発言は。

義母が豹変したらしかった。

その場に私がいないので不用意に言えないが、親戚を巻き込んでもめたらしい。

父は数年間家の外をろくに出歩けなかったそうだ。

そのうち、義母が持病で手術したらしかったが、私と親戚には事後報告だった。

あまりに数多くあって、今でも怒りが込み上げそうだからやめとく。

私が休みの時に帰った時はそんなそぶりは無かった。

たまに帰って来た私には、休ませる意味で見せて無かったのだろうし、

「仕事だけで大変なのに、心配させたくなかった」という言い分だった。

とにかく、私が戻った2日後に親の大喧嘩がはじまり、

姉、兄は「いつものことだ」と言ってた。

ショックだった。

よくなるどころか、仮面家族になってた。

母が居なくなって、荒れた家でも意見をいいあう空間はあった。

でも、ここは互いを探り合う、いやらしい家になってた。

事情を知ってる叔母に事の真相を聞き、

「私が出て行ったのが原因なのだろうか?」と相談したら、そうでもなかったらしい。

ここでもいろいろあるんだけど、

友達には「あの東京時代の方が良かったんじゃないの?」とまで言われた。

私は義母とは半年過ごして以来、5年以上離れていた。

5年前の家のものは「母」が居た頃の記憶の方が鮮明で

何が増えて何が消えたか一発で確認できた。

もちろん変化は当然で、覚悟して出たが、同時にどこが狂ったかも見えてしまうので、

「あれ、どうしたの?」という今まで普通だった質問事項が

今では禁句になってる事に、不快感を覚えた。

過去に捕らわれるつもりはなかった。

けど、あまりにもひずみが生じ、何故そこまで変わってしまったか

見過ごすわけにはいかなかった。


・・・・・・守りたかったものが、どんどん消えている。


義母も、後妻という立場、しかも自分のイトコのダンナと子供。

母に負けたくないというのもあるだろう。

それ相応の苦労もわかるし、義母の人生もいろいろあってここまで来たはずだ。

上京前、父にこう言った、

「その人はお父さんにとって“奥さん”だけど、私にとっては“お母さん”じゃない。」

私は“母”のおなかから産まれたんだから。

上京時代、姉に手紙を出してた。

「私は義母のことを“お母さん”とはどうしても呼べないけど、

もし、兄弟誰かに子供が出来たら“おばあちゃん”にはなれるよ」と。

“お母さん”は“血”ではおばあちゃんだけど、

時を刻み接し、知識なんかを詰め込む“育て”のおばあちゃんになれると。

本心だった。

家がもめた時、この手紙が義母に渡されたらしい。

帰郷し、一緒に住んではいるが、さらに過酷になった。

あまりにも不条理な事で一方的に責められ、話し合いをしても改善されなかった。

本気の怒鳴りあいもした。

結果、サジを投げた。

お互いを知らない者同士が家族になるというのは、生半可な態度では潰れる。

何のために一緒になるのか。

それは一緒にいたいからという理由なのか、

行く場所がないからなのか、

世間体のためなのか、

何故、その人を必要としたのか。

誰もこうなるつもりで選択してきたのではない。

わかるからこそ、結果に繋がらないのが悲しい。

今年で10年。まだまだ溝はあるけど、どこで引いて、どこで引かないか、

何かが吹っ切れ、何かは認め、何かは絶対認めないけど、

10年の歳月があって今があるのには変わりない。

人は影響力だ。

たかがひとり、されどひとり。

人とは誰でもめぐりあえる

けど、分かり合える人はどれだけいるのか。

今、私には

事後報告になるネタもある

一生言わないネタもある

誰かに苦しめられてる

誰かを苦しめてる

誰かには心を許し

誰かには秘密にし

誰かを恨み

誰かを許し生きてる。全て一度は経験した事なのに、またしてる事だ。

ただ、違うのは「責任」。

その経験の先の感情を知ってる以上、私があえてそうしている行動は

覚悟があっての事と言ってもいい。

この気持ちに揺らぐようでは覚悟が足りて無い事だ。

気持ちは揺らいでいない。

結果、どう流れていっても私は立ち向かう。

今までの経験を無駄にしない事、立ち向かわせる勇気と変えてここで浄化させる。

あの経験があったから、乗り越えられたと言わせてみせる。

家の事も、人に対してサジは投げたが、かといってあきらめたわけではない。

洗脳するとかじゃなく、行動して結果で理解してもらえるようにしていく。

見せていく事で、やりきる。言ったこと、嘘じゃないという事を。

今回、あえて自分の私情を持ち込んでまで書いたのは

私のこれからの人生、「母」が居ない時間の方が多くなり、

住んでいる自宅に母が居た時間より「義母」が居る時間が長くなり、

あと少しで「義母」がいる時間の方が長くなり、どんどん更新していくから。

これはもう現実。

過去にしがみついてるというのではなく、

過去があって今があり、今から未来が始まるから

直視しなければならないと思ったからだ。

今、問う。


私は


あなたは


自分が消えても、

どこかで生き続ける人間になっているだろうか。

2008-09-17

| 穢 - キリトリセン のブックマークコメント

都合よく厭らしく考えさせて心の中に侵食して犯していけばいい。手を加えずに汚してやる。それも一種の攻撃。

2008-09-08

創造物の感触

| 創造物の感触 - キリトリセン のブックマークコメント

WEBは確かに目の前にはあるけど決して手には取ってないし手元に残っていない。

2008-08-17

聞くことも閉じることも

| 聞くことも閉じることも - キリトリセン のブックマークコメント

何でも軽々しく言うべきじゃないもの、自己処理で留めるべきのもの。出来事に対して比重があるけど、それを言わないのは心を開いていないとかじゃなく、気持ちを言う事が心を開いてる事であるんだな、と。

心を聞いてもらえる相手がいて、心を汲んでくれた事が何よりも嬉しいものだし。

逆に私もそういう事があった時に「何で黙ってたの!」というのではなく、黙ってた事の苦痛とか、それを超えて打ち明けてくれたことの意味とかを汲んで同じ事が言えればな。

2008-05-07

現存在

| 現存在 - キリトリセン のブックマークコメント

「せめて夢の中で会いたい」って人はいますか。

私はなんだかんだと複数います。


昨日、その中でも特に会いたいと思ってる人が夢に出た。

それは故人で、相手は亡くなった当時の姿や年齢で、

私は今の年齢で会っていた。


成人する前に別れたので相手は全然若くて、

別れた時の私はものすごく子供だったのに、

夢での私は今の私のまま、相手は相手のまま、会った。

違和感もなく会えてた夢だった。

けれど、どこか悲しく辛く、目が覚めた。

目が覚めて、慌てて寝なおした。

言いたいこともいわず、ただ淡々と夢の中で会い、

悲しくなったままぶった切って終わったから。

でも当然、もう夢の続きはなかった。


何度も何度も時間の許す限り寝なおした。

目覚めるたびにまた悲しくなって悲しくなって、夢見が悪い状態で起きた。


ずっと会いたくて、夢の中でいいから動いてる姿が見たかったのに、

会えて喜ぶどころか「会えたなー」って思いも感じないで普通に過ごしてた。

言いたいこと、今までのこと、すごくいっぱいあるのに一つも言えなかった。

夢の中の私はこれが夢とは知らずにいるから、今が言うチャンスだということも知らない。

これは夢だから、ずっと会いたかったなんて観念もなかった。

言いたいこと、今までのこと、これを言う事は、夢の中ではありえないんだ。

本当に言いたいことは、面と向かって言わなければ言えないんだ。


会えて嬉しかったけど、あれは嘘の空間だった。

だって私は今の年齢のままで、相手は別れた時の姿で。

そんな風に会った事はないもの。そして絶対にありえないもの。


会いたかった人、何度も夢に出てきて欲しいと願った人が出てきた意味はなんだろう。


私には他にも会いたい人がいる。

それは故人もいれば生きている人もいる。

何年も会ってないし、もう二度と会えない確率のほうが高い。


言いたいこと、沢山ある。

今までのこと、言いたいよ。

そして何よりも相手の事を知りたいよ。

そうだ、そう。

何故こんなに悲しいのか。

あといつ会えるか分からないからじゃない。

「会いたかった」と言えなかったことじゃない。


離れてた間、どう思っていたか聞けなかったからだ。


「元気だった?」とか「大きくなったね」とか、そういう言葉が聞きたかった。

私が知らないでいる時間を、「知る」事で埋めたかったんだ。

けれど時間が止まってる私たちにはそんな言葉は存在しない、だから聞けない。

でも私は生きているから時間がどんどん流れていて、その間もいっぱい考えてて、

それを聞いて欲しかったし、居る場所はちがくても同じく時間を刻んでいれば、

同じように年を重ねてそれまでの想いだって出てくるにちがいない、

けれど時間が止まった人間と進んでいる人間が会ってラグが出るのは当然。

そもそもこれは夢だから、自分の中で作られた願望も込められた夢だから、

だから、だから、「願い」のまま、「叶う」手段にはなっていなかったんだ。

そして埋める事もなく、ぽっかり穴が空いたままでいる今が、余計に悲しいんだ。


ああ、夢はこうして教えてくれるんだ。

夢はこうして現実に戻してくれるんだ。


私はもう、気づかなければいけない。

言いたいことは、ちゃんと相手の目を見て話さなければならない事。

言うという事は相手の気持ちも知りたいからでもある事。

生きていれば、それは可能だと言う事。

私はまだ、知る手段を持っているんだという事。


久々に見た母親の夢は、病室だった。

母親が横たわり、私が看病していた。

小さくて母親の体を一人では起こしきれなかった私が、

夢の中では成人している今の姿だったから、支えて起こしてあげられた。


夢の中では時間が止まっていたけれど、

少なからず当時より何かが出来るようになってた私が居た。