行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド

2013-05-04

[][]人間の範囲と制限についてのメモ 00:13

  1. 少し色々なところで違和感があるので、ここで書き残しておく。
  2. いちいち具体例を出さないが、多くの場合、「人権」とは「人間に無条件に配布される権利」である、という見方を善として是とした人物がいるとして、目の前にいる人間が、他の人間に対して、「彼には人権は存在しているか」という場合に、「いや、ちがう」と答える場合がある。極端な例を出そう。例えば、ギリシア辺りでは、奴隷の扱いが「物言う道具」という扱いでしかなかった。下品なことを考えるなら、「道具」は果たして「人間」の範疇に入るのか、ということ自体を問わなければならない。つまり、「人権意識」と「排斥主義」というのは、認識的な上においては一致していまう。なぜなら、彼が目の前の人物を、たとえ生物学的/立体的/社会的……そういった積み重ねの結果の極限値として「人間」だったとしても、彼らが彼を「人間」と扱うかは別問題だからだ。(付け加えるならば、そのことに怒ることはとても正しいことだと思っている)
  3. 何かしらの行為に対して、それを禁止するといった場合、そもそもその行為を行なわない人間にとっては、その禁止行為は、例えて言えば「空気」のような存在である。例えば、私は自力で手をバサバサやることによって空を飛ぶことができないが、それに対して「手をバサバサやることを禁止する」ということには意味ないし、そのことを気にもかけないだろう。そのように考えるならば、ある禁止事項というのは、「自分が行なわないであろうことをベースとしている」という前提として想定した場合、それを「なぜ禁止するのか」という問題は複雑さを増す。(しかし、このような禁止行為自体が、その禁止の行為自体ができる可能性を、我々に伝えてしまうという側面があるが、これに関しては別件)
  4. 世界観認識として、どうしても外せないのが、「私たちは脅かされている」という意識だろうと思う。これについては明確なことが言えないので、雑にメモしておくだけだが、例えば心理実験の一つに「コップに水が半分ある」といった状態の場合に、「コップに水が半分しか入っていない」と思う人間と、「コップに水が半分も入っている」と思う人間がいるのは、よく言われるたとえ話だが、例えば目の前にピザがあったとして「このピザの価値を増やして皆に満足させるにはどうすればいいか」と発想する人間と、「ピザの価値は一定なのだから、あとはそれを奪い合うしかない」という価値観を持つ人間がいる。後者にとっては、もしかしたら「隣人は敵であるかもしれない(私のピザを奪う他者であるかもしれない)」という判断が高くなる可能性はある。(もちろん、ピザを盗む人間がいるのは現実的に仕方ない側面があり、その辺りの折り合いについてどう考えるかというのは別レイアーの問題なのかもしれない、とも思うが、現時点では保留する)

2013-01-08

[]生活保護法 11:02

  • 生活保護の法的根拠は、生活保護法に準拠するが、しかし現実的には、それをどのように運用し、説明しているのかというファクター(つまり、「窓口」の問題)が入っている。
    • この二つに関しては、基本的に一致していることが求められているし、そのようなイメージで接している。例えば、窓口の人が制度について嘘をついているとは考えないだろう。しかし、現実問題として、この「法的根拠」とは関係ない運用があったり、場合によっては「生活保護法」と反する運用が説明されることもある。
    • これらが発生する問題については、まず一つに福祉事務所に対して人手が足りていないという観点がある。
    • もう一つとして、実は私たちが法律と照らし合わせて、その根拠になる運用と反しているのではないか、という照らし合わせの習慣が無かったりすることもある。例えば、弁護士の人に相談してもらって、それを経路すると役所にすんなりと通る、といったこともある。あるいは、その上位組織に対して相談しにいくといった場合でもそうだろう。ある部分においては、私たちは役所の説明を余りにも「信じすぎて」しまう。(ことさら、福祉に関しては)

2012-06-02

[]生活保護の周辺統計 15:12

  • Wikipediaを参照していただければわかるように、生活保護の需給例自体は、単身世帯31歳ですら「137,400円」の額となっている。
  • もし「労働よりも生活保護を受給したほうがよい」と判断される場合、最低でも「なんらかの労働は、15万円程度稼ぐに値しない金額である」という判断がされている場合による。「生活保護」を「労働」よりも優位に置くということは、単純に考えて、既に日本の労働状況が15万円以上稼ぐに値しない、あるいは今後それに値しない現状であるということであるということを認めてしまっている場合による。もし、労働に未来があるとするならば、生活保護を受けるよりも労働をしたほうがよいという判断になるはずであり、同情や揶揄の対象になるのはあるにしろ、嫉妬の対象にはならないはずである(恐らく、バブル期高度経済成長期の日本であるならば、生活保護を受けることは、むしろ不合理的な判断だとみなされるだろう)。事実、平成元年から8年にかけて、生活保護の世帯数は減りつづけている。
  • 「生活保護」に関する公的統計データ一覧|国立社会保障・人口問題研究所を参照するならば、その半数以上が40歳以上であることを理解するべきだろう。なぜ40歳以上になると膨れ上がるのか、といえば、労働市場において若者よりも中年層のほうが受け入れ難く、同時に今後、労働による優位性を確保できる可能性はとても低いからだ。若者が貧困層に落ちた場合は、補正できる可能性があるが、中年層においては、そのような補正がききにくい可能性がある。
  • 年配者と自殺 - 行乞記 - 断片部を参照。中年層が労働市場において脱落してしまうのは、まず一つに健康問題があるとは言えるだろう。40代までの自殺要因に「経済問題」が多くを占めてしまうことを考えるならば、経済的な問題が突出しているということは考えないといけない。
  • 生活保護は、制度的に不正需給という問題があるにしろ、恐らく本来問題にするべきなのは、「労働よりも生活保護のほうが楽だと思わせてしまう日本の労働環境とはなんなのか?」ということであり、同時に「労働市場において、若者寄りの労働市場が形勢されているのではないか?」と問うことは必要であろう。もちろん、それは日本の倫理観念と切り離せない問題は同様にして存在するだろう(例えば、年下にたいして頭を下げるのを苦手とする、みたいなこと)。もちろん、景気が上向きになればいいという願いはあるが。

2008-12-09

[]年配者と自殺 18:25

データ

  • 図録▽失業者数・自殺者数の推移(月次、年次)
    • 『年次別の各年齢層の自殺者数の推移を見ると、1997年から98年の急増期には、50歳代前後の中高年の自殺の急増が中心であった。20~40歳代の増加の寄与率(増加数総数に占める割合)が28.2%であるのに対して、50歳代だけで寄与率がそれを上回る32.4%であった。定年前の働き盛りの世代を経済ショックが直撃し、中高年の失業の増大によって生活不安が大きく拡大したことが主な要因と考えられる。』
    • 『2004年以降は、50歳代が減少する反面、30歳代と70歳代という若い世代及び高齢者が増加する傾向となっている。2007年には30歳代が最大値を更新し、高齢者は70歳代とともに60歳代も増加している。』
  • 図録▽年齢別自殺率(男子)の長期推移と日米比較
    • 『米国と比較すると、日本の自殺率の年齢構造は、米国では高齢者になると自殺率が高くなるが、60歳代未満ではほとんど自殺率は一定であるのと比較して、極めて特異であることが分かる。フランスドイツイタリアなどヨーロッパ諸国も米国とほぼ同様の構造となっている(図録2770参照)。失業率の年齢構造を欧米について調べてみるとドイツはやや日本と似ているが全体的には日本のように中高年で特に高い失業率とはなっていない。自殺率の年齢構造は失業率の年齢構造とリンクしていることがうかがわれる。』
    • 警察庁は遺書ありの自殺について下表のような原因・動機別年齢別自殺者数を集計している。40歳代~50歳代では「経済・生活問題」「勤務問題」といった仕事・経済面が半数を超えているのに対して、60歳以上では「健康問題」が57.2%と6割近くを占め最も多い理由となっている。
    • 自殺率の年齢構造は失業率の年齢構造とリンクしていることがうかがわれる。』

データから読み取れること。

  • 20代の自殺者は理由がばらけており、基本的に突出した理由がないのが特徴であるとも言える。ちなみに10代の自殺者は学校問題が突出している。
  • 日本の自殺の特徴は、50代まで一環して自殺の割合が高くなっていくことがある。つまり、歳を取れば取るほど自殺する確立は上がっていく。特に70代は2003年から自殺者が上昇している。50代の自殺が郡を抜いているのは特徴的ではあるが、逆に2003年から下がりつつある。自殺の要因に関しては、50代は30.5%が健康問題。60代に関しては経済的問題はがくんと下がり、健康問題が半数を占めることになる。

仮説という名の妄想

  • 欧米も日本も、70代になると年齢の自殺が増加することから、恐らくは70代における自殺は、文化構造とは関係なく、何かしらの、年齢における特殊性に要因があるということは推測が可能である。予想としては、「先の見えなさ」が要因としてあげることができるとは思われる。若者の自殺者数が、景気変動があるにも関わらず、大きく変動しないのは、それが「可能性」と結びついているからだろう。健康問題も、60代未満の年齢において率があまり変動しないのは、これもまた一定の確率で現れる自殺のパターンとして考えることができる。問題は、年齢において経済・生活に収縮していくということだろう。
    • なぜ経済・生活が、歳を取るにつれてあがっていくか。指摘されているように失業率の年齢構造とリンクしており、まずやり直しがきかなくなってしまうということが一つである。この理由には多く考えられる。例えば、年齢が上がるにつれて、必然的に借金が増えていくという問題がある(借金という言い方が嫌であるならば、ローンという言い方をすればいい)。あとは、別の人が論じていたことであるが、若者の格差は修正が利きやすいのに対して、歳を取れば取るほど、それが固定されてしまうという構造がある(例えば、フリーターの問題は、まさに20代が正社員につけないとかいうチャチな問題ではなく(重大な問題ではあるかもしれないが)、30代においてもそれが続いてしまうという問題である、と自分は見ている)。また、20代は貧乏であっても許される側面があるが、段々と歳を取るにつれて、それがマイナス要因として束縛されていく可能性はある。
    • 歳をとればとるほど、経済・生活の部分において可能性を奪われていくように見えるのが、日本の自殺からみえるということは可能かもしれない。欧米に比べて、日本の自殺者が多いのは、まさに日本が可能性をやりくりしている側面があるからだろう。
    • 印象論で申し訳ないが、恐らく年配者が若者の可能性に対して期待するのに関して、いわゆる同世代の可能性に関してはそれほど信じていないということはあるかもしれない。

2008-11-27

[][]アイロニーと倫理 06:05

  • 皮肉は、一つの前提として《倫理的洞察》を必要とする。この場合、《倫理的洞察》というのは、即ち「~すべし」という命題系が、自分にも他人にも当てはまる必要があるという前提を踏んでおり、それを受け取っている。例えば、子供が喧嘩をしていてそれを止めるためにビンタを食らわせて「暴力的なことはしなさんな」というのは、一つの皮肉な寓話であるが、それはまさに「言っている本人がそれを率先して行っているじゃないか」、あるいは「そう言っていた人がそういうことにはまりこんでいる状況がある」という一貫性の欠如に対する異議申し立てであり、一貫性とは、一つの近代的な倫理の条件ではある。そして、それが笑いに転化されるのは、恐らく我々が、何処と無く「自分が一貫している」ということを、少なからず、何処か心の底で信じているという側面はあるだろう。とはいえ、このの記述自体が、一種の「アイロニカル」な調子を帯びているのは、もう一つとしては、「認識のズレ」に対する異議申し立てでもある。「正しい認識」というのも、一つの倫理的な課題ではある。
    • 「認識のズレ」が皮肉であるとするならば、そこには一つの精神分析的操作が紛れこんでもおかしくはない。というのは、精神分析は無意識と意識を発見して以来、このズレを一つの課題として論じてきたからだ。そして、これを一つのコンプレックスとして指摘する形として形式化する。しかし、皮肉自体がそもそもその認識のズレを作り出している、とも言える。例えば「モテたいのに、モテなくて何が悪いと逆ギレしているんでしょう?」はその典型だろう。その形式が、あまりにも妥当で現実味を帯びているが故に、それに対して認識のズレを作り出している。また、さらに言うならば、この皮肉の身振り自体が、何かしらの立場に対して奉仕しているのか、という感受性は必要になってくる。無論、この立場というのが他に在りえぬ立場であるとするならば、その魅力をもってして創造的にはなれるだろう。例えば「あいつ、本当はモテたくもないくせに無理してモテようとしてらあ」ということは言える。ただ、一方によった皮肉というのは、余りにも一面的であるために退屈ではある。
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