行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド
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2014-07-29

ビューティフルドリーマーのいなくなった時代、あるいは、はてな村netcraftさんについて 20:55

そういえば、はてな村村長こと加野瀬さんから、はてな村反省会のお誘いが来ていたのだけど、それに参加できなかった。既に「はてな村」という帰属意識は無くなっていたし、私事が多くなっていたので、返事を出せずに放置ということになっていたのだけれど、はてなブログオフのいろいろな件を見ていて、ちょっと雑感を思ったので、ここに書き記しておく。というのは、ここ最近netcraftさん周辺が、どうもデジャヴ感が強くて、一言メモを書き残す気持ちになったからだ。

だいたい、「それは昔にもあったことだよ」というのは古参というか、老害の言うことで、いわゆるキャビキャビのはてなレディースアンドジェントルメンは気にしなくてもいいのだけど、例えば齋藤さんが気にしている「昔のはてな村だったらなおやさんとか気軽に呼んだよね」という話は、僕がはてなダイアリー(そう、はてなダイアリーなのだ!)で「東浩紀さんをはてなに呼ぼう」といった某さんみたいな印象がある。

確かに、当時のはてな村というのは、今も揶揄されるくらいには気持ち悪いけれども、たぶん齋藤さんが気にしているのは、今のはてなが「祭りの不在」によって成り立っているということだ。それはいわば、個人で細々とやっているサービスではなく、企業的なサービスであるならば、内輪ノリの「祭り」というのは排されるのは仕方ないことで、それはわかるのだけれど、一部のユーザーからすれば、「えっ、なんで祭りが無いの」という話になる。

以前だと、オタクの消費行動として、「ビューティフルドリーマー」が挙げられることが多かった記憶がある。そう、押井守が監督した「うる星やつら」の劇場版だ。オタクは永遠に文化祭をやり続ける存在で、成熟を拒否した存在である、と。この延長上の批判として、惑星開発委員会も存在しているわけだし、またシロクマさんこと熊代亨の「適応問題」というのがあったはずだ(少なくとも、当時において宝刀は「適応」と「成熟」だったように思う)。

とはいえ、こういう時代も終わりつつあるように思う。それは「意識高い系」という若者の存在だ。意識高い系とは、色々いえるのだけれど、自分では現在直感的かつ乱暴に結論付けているのは、彼らが「成熟」という問題に対して、過剰適応しようとしている点であるということが出来る。つまり、彼らは「成熟する」ということを望んでいるということだ。一方で、ニコニコ動画が超会議というものを、ひとつのイベントとして昇華させてしまったために、ある部分において、文化祭というものが「成熟の否定」から「成熟せずとも生きられるのではないか」という可能性を提示したために、「成熟を否定すること」よりも、むしろ「成熟しないことの徹底」のほうにシフトした。これを露骨に受けているのが、Web系のベンチャーと呼ばれる若者企業のノリだと思う。彼らはある部分において「成熟しないこと」を、知ってか知らずか、武器にしている印象は否めない。

問題はこの二つ。つまり「成熟しないことの子供っぽさ」と、「成熟を加速すること」の二つが両極にあるというのが、今のところの暫定的な結論。

さて、このように分割し、「成熟」/「成熟しない」という分割において、「はてな村」という問題を考えると、そもそも「成熟」を最優先にしつつ、しかし「祭り」というものに憧れつつ、コミットすることを期待していた人々にとっては、なぜ「祭り」が存在しないといういぶかしさがあると思う。いや、祭りは存在しているのだが、その祭りというのは、文化祭――もっというと、高校生の文化祭というものが存在しないことだと思う。知人はそういうのを「青春ゾンビ」ということで揶揄したりしていた。そうなのだろう。僕もある部分においては青春ゾンビであるから、その気持ちはわかなくもないけれど、しかし、ある一面においては、そのような近代的なスキーマーであるところの「成熟」というものが、そういった「ビューティフルドリーム」のような夢を見させなくなった、ということに近いと思う。そして、ある一瞬において、立ち止まったときに、その「青春」という段階というのが回帰する。

だからなんだ、というわけではないが、ある部分においては僕のような、なにかといえば「はてな村」という括りを手放さない僕達のような存在が、「はてな村」を亡霊のように復活させようとするような「祭り」を作り出している。別にそこに罪悪感も何も感じないし、各自でやっていけばいい。ただ、やっぱり僕があのころの「はてな村」だと思っていたものではなく、やはり移り変わっていくものだな、というのを印象深く見守るに過ぎない。そして、人々が非モテで散々議論されてきて、その様子をうっすらと知っている友人が似たようなことを口走っているのは、やはりその主題というのは、何度でもよみがえるような亡霊のようなものであり、その経験は老害が「それは過去に散々やったことだ」なんて主張するべきものではなく、そのときに一度「誤解」しないと、到達できない何かの道なのだろう。そんなことをジジェクが書いてた気がする。

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