行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド
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2010-04-27

”チープテクノロジー”という考え方 01:15

今でも、父親が買ってきたMSXという、アスキーから出ていたパーソナルコンピューターのことを思い出す。一緒についてたプログラム雑誌を見ていると、”マシン語”という言葉があって、僕はそれに関して「??」という感想を覚えている。

あとから知ったのだけれども、プログラミング言語という場合、大抵は「人間が機械に対して命令しやすいように出来ている」わけで、本当ならば機械には機械なりの言葉というのがあって、それを命令として読み込んでいる。なんでMSXを例に出したか、というと、MSXが”BASIC”と呼ばれる、簡易でふにゃふにゃでバカにされやすいけどとっつきやすいプログラミング言語を採用していて、そしてそれがさらに翻訳されて、機械が理解する。

機械に直接アクセスするということは、難易度が比較的高い。今ですらWindowsGUIと呼ばれる”画像を基本とした操作体系”を利用しているけれども、僕が手にしたころは、コマンドラインと呼ばれる、一行ごとに命令を打ち込んで理解させるという作業を行っていたりしていた。もちろん、実際のソフトはグラフィカルにゴリゴリと動いていたのだけれども、そのソフトを呼び込むまでには、やっぱり「呼び出してくださいね」とコンピューターの命令で打ち込んでは「その言葉理解できねーよバカ」とコンピューターに言われてイライラしていたように思う。

で、ここで終われば単なる”懐古お疲れ様”という話になるんだけど、この話を最初にした理由。僕が思うに、機械で何かしらの表現をしようとした際に、それを手軽に扱えるような技術が間に挟まっているという直感に基づくものだ。一番機械を理解するのに一番いいのは、それを機械に近い形で理解することだ。だけれども、人間というのは、恐らく学習することが多ければ多いほど振るい落とされてしまう。

そこで、”最先端ではないけれども、手軽に表現したり、あるいは安価で親しみやすく表現できるようにする技術”というものがあって、それが影響力を与えているんじゃないか、というのが一連の歴史にあって、それこそが表現として重要になっているのではないか、ということを考えてみると面白いかもしれない、と一瞬思った。そして、それを”ハイテクノロジー”と対応するものとして”チープテクノロジー”として考えると重要なんじゃないか。

当初は、プログラミング言語ですら、表現の敷居を下げるという意味では遥かに重要だと思う。当然のことながら、その過程において実行速度ががくんと下がったり、自由度が無くなったりという障壁はあったものの、だ。

でも、やっぱりグラフィックを扱ったり、あるいは機械のキーボードの操作を一からやっていくというのは困難だ。プログラミングをやると、例えば「上を押したら、上に移動する」という「そりゃそうだろ」ということをちゃんと機械に理解させてあげないといけない。

これは大変だ。

とすると、更なる”チープテクノロジー”が誕生する。

僕が思い浮かべるのは、その代表例が”RPGツクール”だと思う。

例えばゲーム製作板では、そのテンポの悪さと典型的なステータス画面で、悪い意味で評価が高い”RPGツクール”で、確かにそれを言われたら仕方ないよね、とは思うけれども、しかしそれでもそれが用意した表現は大きいように思う。

例として「ゆめにっき」「タオルケットをもう一度2」ついでにShirokuroさんという方が作っているゲーム、あとは僕のゲームを挙げてみる。僕のは”RPGツクール”ではないけれども。

 これらの作品は、大抵は「ゆめにっきっぽい」と言われてしまう括りなのだけれども、しかし、これらの作品が特徴としていることは、恐らくは”プログラミング”を知らないけれども、”RPGツクール”を使用すれば、”RPGという形態を取った表現”が容易に出来るということだ。さらに言うと、”RPGツクール”はユーザーも多いため、ある程度の自由さを表現するためのノウハウも多い。

 あるいは海外だと、MODと呼ばれる、例えばHalf-Life系統のFPSのステージ内容を自由に組み替える仕組みを使って、独特の表現を行ったりする。

 で、ちょっとだけメディアアートの関係とも考えていきたいのは、これらの”チープテクノロジー”が表現というものに対して、大掛かりで大規模なモノなのではなく、逆に手軽で持ち運びやすく、さらに他のパソコンでも気軽に再生可能であるということだ。例えば、日本メディアアートの画像をちょこちょこ見ていると、やっぱり”大掛かり”というのがある。

 僕はアートにそれほど詳しくないので、この”大掛かり”ということにどのような歴史的文脈があるのかはわからないけれども(素人の浅はかな考えだと、技術の広告性とか可能性とかその辺りに行き着くのだと思うのだけれども)、でもこれら”でっかいな、すごいな”という”ハイテクノロジー”とは別のあり方があるんじゃないのかなって、素人考えでは思う。

 さて、もう一つ。問題はこれらが、今で言うともう恥ずかしくて言えない”インタラクティヴ性”、つまりお互いに関わりあうという表現を簡単にしてしまうということ。僕はこれをメディアにおける”画材”として表現してしまってもいいんじゃないか、とは思う。例えば、紙にエンピツで絵が描けるように。

 問題は「紙にエンピツで絵が描ける」ということを当たり前のように考えるかもしれないけれども、それは実際には技術の集積がある。鉛筆だって、それを描きやすくするためにはそれなりの歴史的含蓄がある。とすると、パーソナルコンピューターで「インタラクティヴなモノ」が「紙にエンピツで描くに近い形」で作れるようになっていくというのは、それこそコンピューターを使ったアートに対して、ゆっくりと地殻変動を起こしてしまう可能性はある。

 そして、その”可能性”は無視される気がする。

 場合によっては、その”可能性”を掘り起こせば、とんでもないことになるかもしれない。「かもしれない」なんですけど。

 自分の考えていることは、誰か考えているとは思うので、詳しい人がいれば補足してくれれば嬉しいです。あと、たぶんここ最近Ustreamを使っている人が増えているのも、”チープテクノロジー”という問題から考えていくと面白いのかな、と漠然と思ったりもします。

補足

 よくわからないけど、「デジタル世代のブリコラージュ」という問題があるのかな。

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