行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド
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2007-06-10

適応の末に 20:48

恐らく技術論的解決の問題はそれがいわば内実的な充足感を伴わないということだろう。やっと手に入れた宝石がガラス玉としてしか存在しないという悲しみはたぶん蔓延する、と僕は思う。たとえばコミュニケーションの技術を磨き、脱オタして、それで普通にコミュニケーションが出来たとしても、そこで手に入れた幸福がある種の《のっぺりとした絶望》であることはよくあることになる気がする。

現在がサバイヴの時代であり、生き残るための戦略の重要さがあるとするならば、二つのモードを帰結する。一つは《結果主義》であり、《技術論的解決》である。《結果主義》は過程の意味を消失させ、《技術論的解決》はその使用意義を消失するだろう。さらにこれに対して《贅沢を言うな》という言説を生む。つまり、生き残れている以上は贅沢を言うなということだ。その手に入れたものに対する絶望感は共有されない。

ぼくはある機会があって宇野氏の「ゼロ世代の想像力」と「PLANETno.3」を読んだ。彼の時代分析は僕の実感としても一致する。ただし、ひっかかるのはおちこぼれの人達を救済しようという作業だ。思想・言論界がどうしてもそのような塾的構造、つまり教示的にならざるを得ないとしても、そのように底あげしたあとに見える絶望的感覚は消え失せてしまう。

つまり、確かにマニュアル化し啓蒙することは正しいのだが、マニュアル化した以降に開けてしまう世界の絶望感を消したところで成立しているということだ。そして、むしろ十代・二十代的感覚としてはそちらの絶望感が強い気がする。そして、より相対的には普遍的絶望感のようにも見える。

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