行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド
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2007-06-07

おれはじゆうになったのだー! 12:20

いまさらながらサンボマスターの「これで自由になったのだ」を聞いてうっかり涙したりするのだが、うっかり涙流した理由というのが俺自身がやはり一晩中誰かを憎んでいたからであったのだった。

断片部なので断片的に書くとするならば、問題は「今ここで今ここで何かを許したら/そんだけ僕らカラダ中痛みが走るのさ」で、これは最初の《憎み》と響きあっている気がする。もちろん、これは「くだらぬ横顔」を許してはならないということでもあるわけなんだけれども、俺自身は「許す」というウソもあるんだ、と思う。やはり、世の中は許せないこともたくさんあるわけであり、僕らは一晩中憎んではウソまみれになってしまうわけで、しかし、何かというのは何かであって、そういう《憎み》でもある気がする。もし、《憎み》をやめたとしても《許す》という嘘が待ち構えている。問題は「くだらぬ横顔」であり、《憎んだり》《許したり》することではない。そこを考え無ければ僕らは痛みが走ってしまうだろう。

《決断主義》というタームが一つの罵倒語として流通するとき、僕達は《ダブルバインド》という状況を忘れてしまっている。あらゆるものが相対化される時代は自分の価値観に信念を持てないのであり、そして、どの価値観をとっても否定される。従って、真面目な人達ほど、行動が出来なくなる(今の時代において決断できるのは、不真面目か狡猾かのいずれかである)。

サンボマスターの歌は基本的に逆ギレだという解説が説得力を持つならば(→はてなブログ)、橋本治氏が何かの本で書いていたように「ここで拳をあげなければ嘘だろうという瞬間が存在」する。そして、拳をあげるということは決断ではなく、不可解な決断がそこにはあって、それにどうやって決着をつけるかだ。《逆ギレ》というのはそういう不可解な選択なのだ。だからサンボマスターは「明日も僕ら始められないなら」という。もう、取りあえず拳あげて、そのあとあたふたして謝ったり誇ったりしなければならないんだけど、なかなか拳があげられないという側面があって、取りあえず拳をあげるべきだろうという瞬間に拳をあげられるというのが自由であるという状況は存在していると俺は思う。だから、《恨んだり》《許したり》というよりも《逆ギレ》して《拳あげて》、おろすところがなくなって、あの子に会いにいったり「これで自由になったのだ」というのである気がするのだった。そして、そのことで俺は自由になったのだ。

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