行乞記

頭の中に鉢を持って知識を乞う
/プログラミングサイド

2015-03-15

はるしにゃんという人の文章を読んで、今の20代にとって80年代とはなんだったのかがわかった気がする 04:47

お探しのページは見つかりませんでした。 - はてなブログ が最近文章で上がってきて読んだところ、若い人たち、特に20代にとって80年代というのは、むしろ「新しいもの」なのだな、という感じがあって印象深かった。このはるしにゃんという人は、ゲンロンカフェ(東浩紀がやっているやつね)に出入りしていて、ブログとかも、俺よりは読者が多いみたいだし、界隈も近い感じ。実際に一度LINE越しで話したところだと、良くも悪くも正直なところはいいところだとは思う。ごく一部の界隈では噂の絶えない感じで、そういうゴシップを聞きながら「そういえばゼロアカ道場なんていうのもあったなー」という感じになったりしていた。

それはともかくとして、例えば、岡田斗司夫の問題とかは、いわゆる20代にとっては、「オタキング」としての岡田斗司夫ではなく、「社会評論家」としての岡田斗司夫ということのほうが強いという話を聞いて、へーと感じたりした。例えば、自分の歳(30代)だと、岡田斗司夫っていったらまず最初にガイナックスの設立者だよね、という印象で、当然岡田斗司夫といえば、相棒は唐沢俊一になるのだけれど、例えばお探しのページは見つかりませんでした。 - はてなブログの文章を読むと、そのあたりの文脈がすっぽりと抜け落ちていてとても「不思議な」気持ちになったのだけれども、そうなのか、ガチャピンといえば「開け!ポンキッキ」が通じない世代というのもあるのか、というところを考えて合点がいったりしていた。(ちなみにオタク論的には両者とも、ネットの炎上の対応しそこねで沈没したところは、おそらく興味深い問題だと思うんだけど、今回はそこを省く)

また、他にも はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.1 少女的理想と現実の狭間にゃん - KAI-YOU.net の総論部分であるところの†さんのツイート: "アニメというのは記号の集積が動いているものという認識です。そして記号は必ずしもシンボルとは限らない。おおよそアニメというのはC.S.パースの用語法で言えばイコンです。そこにシンボル的なものを強調して入れるかどうかは監督の裁量と才能となという解釈、俺の理解だと「記号的な集積からシンボルを読み解く」という解釈方針に関しても、既に蓮實重彦が『物語批判序説』から一貫して距離を置き続けてきた、いわゆるストーリーというか、象徴みたいなものから距離を置いて、あえて映画作品の関連からの記号の集積として、あるいは引用とその解体という作業を通じての読解ということになっていた筈で、そのあたりがさらに逆転してしまっていて、乱暴にいうとアニメ記号の集積だから、逆にそういうシンボルを読み取ろうというのは、結構時代を遡っていて面白いなと考えたりしていた。少なくとも批評的にはたぶんそうだと思う。

ちなみにシェアハウスの問題に関しても、この総括が既に「だめ連」的な問題に遡っているわけで、でも考えてみればもう20代には「ヒッピームーブメント」とか「カウンターカルチャー」という単語は知っていても、「だめ連」があったなんて知らないんだよなということを、感慨深く思ったりしていた(あえてギリギリ素人の乱くらいだろうか)。

こういう風に知識をだらだらと羅列しても老害の戯言にしかならないわけで、これを不勉強だからというのは背伸びした説教に過ぎない。世代論で片付けてしまうのもどうかとは思うのだけれど、とはいえ、若い人で批評をやる人にとって、どのあたりがネックになっているのかはわかったりしていた。俺もそうだし、いつの時代の若者は、歴史というのを体験ではなく、資料として読み漁らないといけないわけだ。そして、その資料を読み漁るのは思いの外面倒臭いのだが、しかしその資料を読まないと、容易な歴史性への言及自体が、単なる過去の反復にしかならなくなってしまうのは問題なんだよな、というか単純に努力家なのになんだかもったいないよねとは思ったりする。

自分もそのあたりはちゃんと意識しておこう、と自分より下の文章を読んで思ったりしていた。

2014-07-29

ビューティフルドリーマーのいなくなった時代、あるいは、はてな村netcraftさんについて 20:55

そういえば、はてな村村長こと加野瀬さんから、はてな村反省会のお誘いが来ていたのだけど、それに参加できなかった。既に「はてな村」という帰属意識は無くなっていたし、私事が多くなっていたので、返事を出せずに放置ということになっていたのだけれど、はてなブログオフのいろいろな件を見ていて、ちょっと雑感を思ったので、ここに書き記しておく。というのは、ここ最近netcraftさん周辺が、どうもデジャヴ感が強くて、一言メモを書き残す気持ちになったからだ。

だいたい、「それは昔にもあったことだよ」というのは古参というか、老害の言うことで、いわゆるキャビキャビのはてなレディースアンドジェントルメンは気にしなくてもいいのだけど、例えば齋藤さんが気にしている「昔のはてな村だったらなおやさんとか気軽に呼んだよね」という話は、僕がはてなダイアリー(そう、はてなダイアリーなのだ!)で「東浩紀さんをはてなに呼ぼう」といった某さんみたいな印象がある。

確かに、当時のはてな村というのは、今も揶揄されるくらいには気持ち悪いけれども、たぶん齋藤さんが気にしているのは、今のはてなが「祭りの不在」によって成り立っているということだ。それはいわば、個人で細々とやっているサービスではなく、企業的なサービスであるならば、内輪ノリの「祭り」というのは排されるのは仕方ないことで、それはわかるのだけれど、一部のユーザーからすれば、「えっ、なんで祭りが無いの」という話になる。

以前だと、オタクの消費行動として、「ビューティフルドリーマー」が挙げられることが多かった記憶がある。そう、押井守が監督した「うる星やつら」の劇場版だ。オタクは永遠に文化祭をやり続ける存在で、成熟を拒否した存在である、と。この延長上の批判として、惑星開発委員会も存在しているわけだし、またシロクマさんこと熊代亨の「適応問題」というのがあったはずだ(少なくとも、当時において宝刀は「適応」と「成熟」だったように思う)。

とはいえ、こういう時代も終わりつつあるように思う。それは「意識高い系」という若者の存在だ。意識高い系とは、色々いえるのだけれど、自分では現在直感的かつ乱暴に結論付けているのは、彼らが「成熟」という問題に対して、過剰適応しようとしている点であるということが出来る。つまり、彼らは「成熟する」ということを望んでいるということだ。一方で、ニコニコ動画が超会議というものを、ひとつのイベントとして昇華させてしまったために、ある部分において、文化祭というものが「成熟の否定」から「成熟せずとも生きられるのではないか」という可能性を提示したために、「成熟を否定すること」よりも、むしろ「成熟しないことの徹底」のほうにシフトした。これを露骨に受けているのが、Web系のベンチャーと呼ばれる若者企業のノリだと思う。彼らはある部分において「成熟しないこと」を、知ってか知らずか、武器にしている印象は否めない。

問題はこの二つ。つまり「成熟しないことの子供っぽさ」と、「成熟を加速すること」の二つが両極にあるというのが、今のところの暫定的な結論。

さて、このように分割し、「成熟」/「成熟しない」という分割において、「はてな村」という問題を考えると、そもそも「成熟」を最優先にしつつ、しかし「祭り」というものに憧れつつ、コミットすることを期待していた人々にとっては、なぜ「祭り」が存在しないといういぶかしさがあると思う。いや、祭りは存在しているのだが、その祭りというのは、文化祭――もっというと、高校生の文化祭というものが存在しないことだと思う。知人はそういうのを「青春ゾンビ」ということで揶揄したりしていた。そうなのだろう。僕もある部分においては青春ゾンビであるから、その気持ちはわかなくもないけれど、しかし、ある一面においては、そのような近代的なスキーマーであるところの「成熟」というものが、そういった「ビューティフルドリーム」のような夢を見させなくなった、ということに近いと思う。そして、ある一瞬において、立ち止まったときに、その「青春」という段階というのが回帰する。

だからなんだ、というわけではないが、ある部分においては僕のような、なにかといえば「はてな村」という括りを手放さない僕達のような存在が、「はてな村」を亡霊のように復活させようとするような「祭り」を作り出している。別にそこに罪悪感も何も感じないし、各自でやっていけばいい。ただ、やっぱり僕があのころの「はてな村」だと思っていたものではなく、やはり移り変わっていくものだな、というのを印象深く見守るに過ぎない。そして、人々が非モテで散々議論されてきて、その様子をうっすらと知っている友人が似たようなことを口走っているのは、やはりその主題というのは、何度でもよみがえるような亡霊のようなものであり、その経験は老害が「それは過去に散々やったことだ」なんて主張するべきものではなく、そのときに一度「誤解」しないと、到達できない何かの道なのだろう。そんなことをジジェクが書いてた気がする。

2013-05-04

[][]人間の範囲と制限についてのメモ 00:13

  1. 少し色々なところで違和感があるので、ここで書き残しておく。
  2. いちいち具体例を出さないが、多くの場合、「人権」とは「人間に無条件に配布される権利」である、という見方を善として是とした人物がいるとして、目の前にいる人間が、他の人間に対して、「彼には人権は存在しているか」という場合に、「いや、ちがう」と答える場合がある。極端な例を出そう。例えば、ギリシア辺りでは、奴隷の扱いが「物言う道具」という扱いでしかなかった。下品なことを考えるなら、「道具」は果たして「人間」の範疇に入るのか、ということ自体を問わなければならない。つまり、「人権意識」と「排斥主義」というのは、認識的な上においては一致していまう。なぜなら、彼が目の前の人物を、たとえ生物学的/立体的/社会的……そういった積み重ねの結果の極限値として「人間」だったとしても、彼らが彼を「人間」と扱うかは別問題だからだ。(付け加えるならば、そのことに怒ることはとても正しいことだと思っている)
  3. 何かしらの行為に対して、それを禁止するといった場合、そもそもその行為を行なわない人間にとっては、その禁止行為は、例えて言えば「空気」のような存在である。例えば、私は自力で手をバサバサやることによって空を飛ぶことができないが、それに対して「手をバサバサやることを禁止する」ということには意味ないし、そのことを気にもかけないだろう。そのように考えるならば、ある禁止事項というのは、「自分が行なわないであろうことをベースとしている」という前提として想定した場合、それを「なぜ禁止するのか」という問題は複雑さを増す。(しかし、このような禁止行為自体が、その禁止の行為自体ができる可能性を、我々に伝えてしまうという側面があるが、これに関しては別件)
  4. 世界観認識として、どうしても外せないのが、「私たちは脅かされている」という意識だろうと思う。これについては明確なことが言えないので、雑にメモしておくだけだが、例えば心理実験の一つに「コップに水が半分ある」といった状態の場合に、「コップに水が半分しか入っていない」と思う人間と、「コップに水が半分も入っている」と思う人間がいるのは、よく言われるたとえ話だが、例えば目の前にピザがあったとして「このピザの価値を増やして皆に満足させるにはどうすればいいか」と発想する人間と、「ピザの価値は一定なのだから、あとはそれを奪い合うしかない」という価値観を持つ人間がいる。後者にとっては、もしかしたら「隣人は敵であるかもしれない(私のピザを奪う他者であるかもしれない)」という判断が高くなる可能性はある。(もちろん、ピザを盗む人間がいるのは現実的に仕方ない側面があり、その辺りの折り合いについてどう考えるかというのは別レイアーの問題なのかもしれない、とも思うが、現時点では保留する)

2013-01-08

[]生活保護法 11:02

  • 生活保護の法的根拠は、生活保護法に準拠するが、しかし現実的には、それをどのように運用し、説明しているのかというファクター(つまり、「窓口」の問題)が入っている。
    • この二つに関しては、基本的に一致していることが求められているし、そのようなイメージで接している。例えば、窓口の人が制度について嘘をついているとは考えないだろう。しかし、現実問題として、この「法的根拠」とは関係ない運用があったり、場合によっては「生活保護法」と反する運用が説明されることもある。
    • これらが発生する問題については、まず一つに福祉事務所に対して人手が足りていないという観点がある。
    • もう一つとして、実は私たちが法律と照らし合わせて、その根拠になる運用と反しているのではないか、という照らし合わせの習慣が無かったりすることもある。例えば、弁護士の人に相談してもらって、それを経路すると役所にすんなりと通る、といったこともある。あるいは、その上位組織に対して相談しにいくといった場合でもそうだろう。ある部分においては、私たちは役所の説明を余りにも「信じすぎて」しまう。(ことさら、福祉に関しては)

2012-06-02

[]「こんなこと勉強して役に立つの?」という子供への答えについて 02:38

  • 論点として、そもそも知識について「役に立つ」か「役に立たない」の二種類がある。これは古典的には実学と虚学の対立。
  • 何かしらの勉強を役に立つと思う人間は、それが何かしらを生み出すために必要であると思うため、それを理解させる。これは具体的な有用性の問題である。有用性を理解させる方法はいろいろあると思われる。有用性というところでは、例えば単語を100個覚えたら飴玉を一つ上げるという方法もあるわけで、極端な話、それが「役に立つ」ということでもある。
  • 何かしらの勉強を役に立たないと思う人間は、それ自体が面白いからだという。
  • 子供が「こんなこと勉強して役に立つの?」という問いに大人たちが苛立つのは、大人にとってそれが子供にとって必要であると思っているのにも関わらず、それを無意味だと言われているように感じるからだろうとは思う。だから、子供の「役に立つの?」という問いに対して、それは無意味ではないというように答える。
  • ただ、一つだけ言えるのは、子供にとって明らかに「知識」というもので勝負している世界というのがあり、それによって動かされている世界があるということは覚えさせてもいいかもしれない。簡単なゲームをやるのでもいいだろう。要するに、「知っていること・考えていること」ということで勝負している世界がある。もし、子供がそういう「知っていること・考えていること」に対して勝負している世界というものに、興味を持つならばそれで生きていけばいい。
  • 以前にバカな芸能人を集めて舞台に立たせて誤答を笑うというテレビ番組があったが、得てして、大人たちにとっても、知識や知性というのは「こんなことを勉強しなくてもいいのではないか?」と思わせるものであったり、「もっと勉強しておけばよかった」と後悔したりするものだろうと思う。むしろ、子供には、一般的に言われているような「勉強」という世界とは違ったステージの戦いがあり、もしかしたらその道も選べるのかもしれない、ということをわからせて、それでホッとさせればよい。子供にとって、そっちのほうが有用であり、道は一つではないと思う。

[]生活保護の周辺統計 15:12

  • Wikipediaを参照していただければわかるように、生活保護の需給例自体は、単身世帯31歳ですら「137,400円」の額となっている。
  • もし「労働よりも生活保護を受給したほうがよい」と判断される場合、最低でも「なんらかの労働は、15万円程度稼ぐに値しない金額である」という判断がされている場合による。「生活保護」を「労働」よりも優位に置くということは、単純に考えて、既に日本の労働状況が15万円以上稼ぐに値しない、あるいは今後それに値しない現状であるということであるということを認めてしまっている場合による。もし、労働に未来があるとするならば、生活保護を受けるよりも労働をしたほうがよいという判断になるはずであり、同情や揶揄の対象になるのはあるにしろ、嫉妬の対象にはならないはずである(恐らく、バブル期高度経済成長期の日本であるならば、生活保護を受けることは、むしろ不合理的な判断だとみなされるだろう)。事実、平成元年から8年にかけて、生活保護の世帯数は減りつづけている。
  • 「生活保護」に関する公的統計データ一覧|国立社会保障・人口問題研究所を参照するならば、その半数以上が40歳以上であることを理解するべきだろう。なぜ40歳以上になると膨れ上がるのか、といえば、労働市場において若者よりも中年層のほうが受け入れ難く、同時に今後、労働による優位性を確保できる可能性はとても低いからだ。若者が貧困層に落ちた場合は、補正できる可能性があるが、中年層においては、そのような補正がききにくい可能性がある。
  • 年配者と自殺 - 行乞記 - 断片部を参照。中年層が労働市場において脱落してしまうのは、まず一つに健康問題があるとは言えるだろう。40代までの自殺要因に「経済問題」が多くを占めてしまうことを考えるならば、経済的な問題が突出しているということは考えないといけない。
  • 生活保護は、制度的に不正需給という問題があるにしろ、恐らく本来問題にするべきなのは、「労働よりも生活保護のほうが楽だと思わせてしまう日本の労働環境とはなんなのか?」ということであり、同時に「労働市場において、若者寄りの労働市場が形勢されているのではないか?」と問うことは必要であろう。もちろん、それは日本の倫理観念と切り離せない問題は同様にして存在するだろう(例えば、年下にたいして頭を下げるのを苦手とする、みたいなこと)。もちろん、景気が上向きになればいいという願いはあるが。
Join the Blue Ribbon Online Free Speech Campaign