2009-12-03
tsudaるは特権的な行為
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別に誰がどれだけやってもいいけど、やるのは会場に一人で足りる。
自分以外にも同じロギングをやってる人がいたとき、自分のロギングに意味はあるのか。
(複数の人がブロードキャストすることで、情報の到達範囲を……はいはいそうですかそうですか。)
何かの会合で、10人くらいが同時に似たようなことをTLに流したりしてるのを見ると、まぁそれはあなたのメモ書きだし別にいいけど、ほとんど価値を生んでないから、自分の感想だけを書いたほうがいいよ、と思う。後で暇な人が実況ログと一緒にまとめてくれたとき、そっちのほうが面白いし。
a.
そうすっと、事後的にTLの中に「このときこう思ったんだよねー」とコメントを挟んだものも一緒に読めたほうがいいのでは、という気にもなる。ニコ動的に。
2009-08-24
迂闊な日記に、なぜお節介なことを言ってくる人がいるのか
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(訂正要求ではなく)わざわざ「迂闊なことは書かないほうがいいと思いますよ?」的なアドバイスを言ってくる人の心中を疑心暗鬼に慮る:
- 私はこの記事が気にくわない
- しかし、気にくわないということを直接書くと私憤で何か書いているようで幼稚だ
- 内容の是非とは別に、迂闊なことを書いて恥じていない、ということを指摘しよう
- つまりこういう論法だ:
- 迂闊なことを書くと、誤解をうけるリスクは上がる。これは自明のことだ。
- 誰だってリスクが上がるのは嫌だ。これも自明のことだ。
- この記事の書き手は、その自明のことを守って書いていない。
- 当たり前のことをわかっていてやらないのは合理的ではない。ブログの書き手として信用するに足りない。「そういう人」である。
- よって私の嫌いなこの記事も、今後この書き手が書く記事も「そういう人」が書いたものと見なすことができる。
- 以上の手順で、内容の是非を問うことなく、この書き手の書いたものが無価値だと言うことができる。
二つめの「自明」以降の展開が非常に怪しいわけだが、そこはなかなか話題に上らないですよね。
追記
rAdioさんのブコメ。弱者にとっては書かれたことが恫喝たりうるのだから、それがわかる立場なら常に気をつけて書け、という主張と理解。特にそのことに異論はなし。
今回の私のケースの場合(何の話だ)、意図しない衝突が事故としておきてしまった場合どうしよう、という話じゃないのかなと思った。
「貶める意図がなくとも、迷惑がかかっているのだから訂正すべきだ」、と、対応を要求できるか。
要求された側としては、訂正はしますが限界はありますよ、というようにしか言えないこともある。
それと、自分の傾向(迂闊なことを書いて何か言われる側の立場)として、「クレーム主が、自分がどう不快であったかという個別のインシデントの文脈を語らず、一般論としてアリかナシかという問題にすりかえる事態=実質、一般論としてのアリかナシかには議論を差し挟む余地がなく、クレーム主の主張をあたかも全て通さねばならないように見える(この件今の文脈では誰がどの程度何をすべきかということがらを問題にするべきときに、一般論を盾に無制限の責任を要求される)」のが、ものすごく癇に障る(上に書いたのはそういうことに対する感想)みたい。
一般論の中には「あなたの記述を見るかも知れない、傷つくかも知れない」人が出てくる。しかし、いもしない人のことを語る前に語るべきことはあるのではないかと思う。
いろいろと比喩を考えた(居酒屋のテーブルで猥談していたら離れたテーブルのおっさんに「公共の場所だろ!」と怒鳴られたときの「はぁ…」感とか)りもしたが、書くほどではない。
追記
以前ここの日記で、自分の不快の表明をどこまで積み上げても相手の行動は変えられないんじゃないかなぁ、などという意味のことを(Brittyさんがはてなに何か言ってた件)書いた気がする。思考に一貫性がないのかも知れない。
追記
そこから最初にもどって「私憤を書くことが幼稚に見える」ということが捻れの始まりなら、私憤を書くときの文体や書法は開発されるべきですね…というのは前にも書いたので終了。
2009-07-09
何を言おうと勝手だし声が届いた時点で「あぁどうも」と言うしかない
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- http://b.hatena.ne.jp/entry/ralf-halfmoon.jugem.jp/?eid=464
- http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/pha/20090708/1247056729
「Aさんは反論されたり批判されることに慣れてないんですかねえ、ネット上に意見を書くということは誰から批判されるか分からないということですよ」
交通事故にあった人に「外出するということはいつなんどき車にはねられるかわからないということですよ」と説教する人みたいで面白い。
なぜ面白いかというと、自明なことを言うのに、それほど意味はないのに、それを一生懸命言っているから。
自明なことを言うことに意味が全くないわけではないかもしれない。道路を渡るとき、おっとそうだった車に気をつけよう、くらいの心理的なフックにはなるかも。しかしそういうのは、気にしておけば事故に遭いづらいかもよ、という「心がけ」「処世術」程度のものでしかない。本当にいつも気にしてるわけないだろそんなの。
むしろ、普段はそういう事故の可能性を忘れ去ることで生きているし、おれの言葉の届く範囲なんてせいぜいこんなもんじゃね、という認識で書いてる。
で、それがたまたまどこか自分の予想外のところと衝突してしまったら、それなりの誠意でやりとりする。そんだけ。
普段書いている感覚をなかったことにして、「誰から批判されるか分からないということですよ」とか当たり前すぎなことを持ち出してなんか言うのは信用できないよね、という話でした。
追記1
「おれの声の届く距離は無限遠」という感覚は、「日本のインターネット」「中心・端」みたいな感覚にもつながってるのかなーなどと思った。
本当に無限遠だと思ってるなら「各国語に翻訳してなくてすいません(sorry, Japanese only.)」という但し書きを全てのエントリに入れるなどすればどうか。
追記2
「おっとそこまでだ、ここから先は<みんな多様でそれでいい>教の異端審問官がお相手する」
「あーうるさいのが来た」
「身の回りにだけ声がとどけばいいという君の発想は、Webの多様性を殺すだけでなく、君自身の視野を狭くしていることに気がついたほうがいいよね」
「だれもそんなことを否定するようには言ってないだろ」
「まぁ、君のやりかたを否定するつもりはない。それこそ多様性だからね、ハハッ。でも僕はいろんな人をfollowすることで自分の幅が拡がっている気がするよ」
「今笑ったのなんで?」
2009-06-12
そうか
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- ネットでものを書くというのはこれまで誰も経験したことのない行為
- そこから生まれる問題は、小さくても、テクノロジーと言葉と意識の問題
- ネット人格の生まれ変わりも死もある、SF的な体験とも言える
- 「人体実験」と言うならばすべての人が自分を実験しているよ
- そんな意味で使われていないのだろうけど、ならば、その言葉の射程はネットの方を向いてない(最初から向けるつもりなんてなかったのかも)
- 「この本ははてなグループのキーワード機能を使って書きました」という話にただようイケてない感
- 人が生きるの死ぬの、現実に影響が出るところだけをすくいとって何かがわかるわけないだろ
- 「ネットコミュニティの運営に悩んでいる? なら文フリに行け」、みたいなことを真顔で言うキャラが必要だ
残念ながらネットで公開された小説を焚書することはできないので、わたしは「****」を意識の中でなかったことにして、神林長平と伊藤計劃の小説ををすべて読もうと思った。
a.
ネットでなんか言うということは、自分の身の回りの環境を改変することなのだし、それはもっと卑近なところでは「今年の手帳なんにしよう」みたいなところにつながる…んじゃないかと思うのだった。
日々手帳やPDAで悩んだりする人の業の深さ(アスキー文化圏ってそんな感じじゃないんだろうか…)を、「テクノロジーによる世界改変の可能性の研究」の源流として…言ってることがめちゃくちゃだ…
b.
「釣り師」「ネタとしては面白い」みたいな貧弱なスキームしかないから、なんかもっともらしいことを言う人に対して「ネタですよね?」と茶茶入れしかできず、いいようにカモられる。
あんなもの、面白くもなんともないのだし、私は私の創作をするほかない。
c.
実際に「人死に」など起きなくても、ダイアリーやブックマークをきっかけに、読むこと書くことに疲れてIDを消したり、名前が付いたり付かなかったりする病気を悪化させたりすることは日常的に起きているが、そのことに気づいたえらい人に「ねぇどうしたの? あなたもシステムの設計の犠牲者なの?」と聞かれても、そんなんおれの問題で人にわざわざ教える筋などないしおまえちょっとうるさいよ、と思うだろうなー。
2009-06-10
「演奏者」
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なんだ演奏者って…**メンバーみたいな意味ですか…。
ニコニコ動画は世界を拡げる仕組みじゃなくて、世界を世間に限定する仕組みになったりするのかも知れない。とくに若い人にとっては。
a.
「コメント欄に群がって才能をつぶしてきもちいいですか倫理至上主義のみなさん」みたいなこと言う前に「演奏者」とかいう言葉のキモさはどうなの、と思うわけだが、まぁ若い人が演奏者やの謝罪やの疑惑やの…というのは、なんだよ大袈裟だな謝罪って誰にだよ死にやせんのにと思いつつ、それはそれでいつかは通る道というか。
来る日も来る日もそういう世間的な誉めたり貶したりをやりとりしてても仕方ないのだし、若いうちからいい塩梅にネット人格を一度捨てられたなんて、良かったんじゃないの、と思うわけだが、そゆこと言うと「才能が」「ネットの面白さが」みたいな向きには受けがよくない。まぁ次のサーカスはどこからでも供給されるんだし、3日経ったら嘆いたのなんて忘れてそうだけど。
b.
IPアンリーチャブルな所でも音楽はできるのだし、要するにニコニコとかを観てる人が「これは才能だ」と認識するのは、そこからどういう形でか視聴者の皆様おつかいのブラウザに接続されたときなのだから、それは、ミキサーやら三脚で録画やらプレイ動画をHDRに分波やらという、接続技術の問題に過ぎない。
なんてことを自分の趣味関連でも思ったりした。