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2008-03-16

うむー

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意味不明に家人にあたってしまった。


よくないよくない。

文書を書きまくり

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代行決裁の規準って普通どうすんだろう?


あと、イカしたワークフロー管理ソフトフリーでないかな。

2007-12-08

d:id:hashigotan問題について思ったこと

| 19:55 | d:id:hashigotan問題について思ったこと - furukatsuの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - d:id:hashigotan問題について思ったこと - furukatsuの日記 d:id:hashigotan問題について思ったこと - furukatsuの日記 のブックマークコメント

一人称俺女萌える!!


つーかですね、まだ彼女女性だというのを公開していなかった時代からわたしゃ女性だと思って萌えるにゃーとやってきたのですよ!!

それが、それが… きー!! くやしー!!

2007-11-27

風邪

| 23:58 | 風邪 - furukatsuの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 風邪 - furukatsuの日記 風邪 - furukatsuの日記 のブックマークコメント

しばらく風邪で寝込んでました。

死ぬかと思いました。

滞っていた作業は再開しました。関係各位にお詫びします。

2007-11-02

拝復、汎用適応技術研究d:id:p_shirokuma先生

18:14 | 拝復、汎用適応技術研究d:id:p_shirokuma先生 - furukatsuの日記 を含むブックマーク はてなブックマーク - 拝復、汎用適応技術研究d:id:p_shirokuma先生 - furukatsuの日記 拝復、汎用適応技術研究d:id:p_shirokuma先生 - furukatsuの日記 のブックマークコメント

先日頂きました公開書簡、興味深く読ませていただきました。いくつが疑問がおありのようですので、簡単に回答させていただきたいと思います。

まず、なぜ社会運動なのか、個人で解決すればよいではないか、というご意見のようですが、これについて説明させていただきます。

そもそもfurukatsuさんは、今日日、社会運動などという手法が非モテを救うと本気でお考えなのでしょうか?第一に、社会運動が運動として政治ムーブメントとして成立し得るには、それなりに広い層の心を掴むテーマに関してのものでなければ苦しいと思うのですが、実際には、非モテは所帯の小さなマイノリティなわけです。

(中略)

若年男子の、しかも男女交際に関する不遇・非コミュという問題は、間口が狭いのではないか、と私は思ってしまうわけです。

男女交際やそれに伴う悩み、また非モテに回収されない単純にモテないという問題について考えますとそれは人類にとって長年重要な悩みであったことは言えるかと思います。人類はその長い歴史において様々な社会的な装置を作り出し、男女交際や同性間の恋愛結婚といった問題に対処してきました。

結婚という制度一つをとってみても、それは文化人類学的な見地や社会学的な見地からの分析は枚挙に暇がありません。恋愛についても同様です。その意味では非モテ問題というものは、個人的な適応の問題であるという部分は否定できないものの、きわめて社会的な問題であるということが言えるかと思います。少なくとも、自由恋愛の現代において晩婚化傾向にあり結婚率が下がり高年齢の童貞処女が顕在化してきたという事実は一つの社会的に把握されるべき問題ではないかと考えます。

同時に社会運動としての可能性ですが、これについては確かに現状では非モテを自称する者はネットの片隅で吹き上がる連中のみかもしれません。また、恋愛の問題が若年層が中心の問題であるというのも事実でしょう。その意味ではシロクマ先生の仰るような大きな社会問題を扱ったほうが社会運動として適合的であるという部分は否定できません。しかしながら、これからさらに晩婚化や非婚化、少子化という問題が展開してくるにつれて、この非モテ問題というのは大きな社会問題となるであろうことは十分に予見可能であると思われます。

確かに社会運動で個々の非モテを救うことは出来ないかもしれません。個人の問題は最終的には個人で解決しなければならない部分が残ってしまいます。しかしながら、非モテ自由恋愛という一つの制度の下で産み出された階級という認識をすれば、それは社会によって作り出された問題であるという部分が存在し、個人的解決は社会的解決と共に進めねばならないでしょう。つまりこれは、一種の車軸の両輪ではないか、と私は考えます。


マイノリティの問題について考えますと、他のマイノリティ、例えば同性愛者やオタクといった人々とも利害が一致する部分があるとは思います。その意味では関連した運動ともなりえるとは考えます。しかしながら、仰る通り小さな集団の群雄割拠した島宇宙状態においてこれらが一致した運動となるというのは難しいとは言えると思います。しかし、利害の一致する部分において共闘していく可能性というのは十分に考えられるでしょう。

確かに、利害のぶつかる部分もあります。しかしながら、我々は利害が異なる人々と協同して社会を作り上げています。我々は、その利害の違いを超えて協同し社会契約を結び国家を成立させたのであって、であればこそ我々は異なる利害を集約し、そして政治的に動くことは可能であると考えられるかと思います。

個人に着目すれば、現代の日本という国家は必ずしも個人にとって有利なものではありません。しかしながら、総体で見れば北斗の拳のようなホッブズ自然状態よりはマシではあると思います。革命的非モテ同盟は全ての非モテに対して完璧な状態を用意することは不可能ではありますが、今よりマシな状態を提供するべく努力をしています。社会の構造を変革し娑婆世界に挑戦するのは困難な事業ではありますが、全てをひっくり返すのではなく、一つでもひっくり返す、それを少しづつやっていくということが重要ではないでしょうか。まずは自らの半径1m、ワンクリックから影響を及ぼし徐々に変革を促し少しでもマシな状況を作ることは不可能事ではないでしょう。

私は個人で自力救済を目指すよりは、団結し集団で救済を目指した方がより効率的であると考えます。確かにシロクマ先生のやり方は個人の適応について効果的であることは認めます。しかし、それはあくまで個人の力に頼るしかありません。私は自分自身の力をそこまで信じられませんから、そのような賭けはしたくないと思います。少なくとも私は医学部に入れるような頭も無ければ、シューティングゲームで全国一位をとるような根気もありません。そのような人間が自力救済を企図するのは無謀な賭けと言われても仕方がないと言えるでしょう。

恐らく、世の中の多くの人間は私も含めて意志薄弱で弱虫で怠惰好色で欲深です。そのような人々にいかにして救済を与えるかといえば、それは自力救済よりも集団で解決したほうが良いと考えます。我々人類は数々の偉業を成し遂げましたが、個人の力によったものもあったとはいえ、そこには集団の力があったのです。ピラミッドを作ったのはクフ王ではなく、数多のエジプトの石工であったのです。原子爆弾を作ったのはマンハッタン計画という一つの企画であり科学者の集団だったのです。

シュプレヒコールはお祈りの言葉ではなく、示威のための声です。政治的な威力、それは票の力や暴力そのものですが、そういった威力を背景とした声です。私は個人の小さな力より、多くの人々の少しずつの力を信じます。既に我々は国家企業政党といった形で集団の力を目の当たりにしている以上、私はこちらを信じた方がよりマシであると考えるのです。

例えばこの活動が、「社会運動」という体裁のもとにfurukatsuさん個人、または参加者個々人が出来るだけ多くの収穫物を活動を経由して入手したいと目論んでいる場合などです。この収穫物とは、具体的には、異性の獲得、発言力の強化や知名度の獲得、またはアイデンティティの一時的備給、などを私は念頭に置いています。

(中略)

ですが、これは社会運動とはお世辞にも言えないでしょう。体裁を借りた個人個人の我利我利競争と呼ぶべきか、そうでなければ、レクリエーションの類と呼ぶべきものでしょう。もちろんレクリエーションも悪くはないでしょうし、カーニバルの収穫祭をみんな仲良く味わうというのは嬉しいことです。しかし、その営為をもって皆の為の社会運動社会改革、と呼ぶことは出来るのでしょうか。

一連の我々の活動にレクリエーションの要素が無いかといえば、それはあると言ってよいでしょう。しかし、それはレクリエーションによって利益を得ることを目的とはしていません。私は以前から「楽しくなければ続かない」ということを言っています。社会運動としてこの運動を捉えた場合、それを継続し集団を維持することは、それが力の源泉である以上、非常に重要な問題になります。そして、参加者個人にとって自らの有限な時間と金を割いて運動をする為にはインセンティブが必要であることは言うまでもないでしょう。これは私にとっても私以外の参加者にとっても同様です。

私は怠惰で欲深ですから、正義燃えて活動を繰り広げるなどという真似は不可能です。たとえ最初はそれで上手くいったとしても、早晩やる気を無くすでしょう。その意味では個人的利益、つまり「社会運動は面白い」ということの為にやっているのは否定しません。

その意味では革非同の活動はレクリエーションでなければなりませんし、その他の社会運動も運動そのものから有形にせよ無形にせよ利益が導ける構造でなければなりません。

もちろん私はこの運動を金儲けの道具にするつもりは毛頭ありませんが、可能最大限自分が、そして仲間が楽しめる形にしようとは常々考えています。ある意味、遊びだからこそ本気で情熱と金と時間を注ぎ込む価値があるのです。

然るに政治とは多数派を占めることである。多数派を占めるとは個々の問題設定を自分が多数派となるように再定義し、部分に於ける多数派という入れ子構造を通じて、少数を以て多数を統御することである。そのための公共の政治的言説とは「自分のためにこうしたい」が本音であっても「世の中のためにかくあるべし」とパラフレーズするのだ。

MIAUに対する微妙な想い - 雑種路線でいこう

また、このd:id:mkusunok氏の議論のように本質的に社会運動は個人の利益のために世の中のためという言説を用いるものです。もちろん、社会的言説にするためには一般的な正義に準拠する必要性はありますが、その本質は己の利益にあるわけです。

その意味では、シロクマ先生の仰る通り「個人個人の我利我利競争と呼ぶべきか、そうでなければ、レクリエーションの類」であり「革命というレトリックを借りた、参加者個々人の収穫祭」でもあるというのは一面において正しいと言えます。しかしながら、それはあらゆる社会運動についても言えるでしょう。人はインセンティブがなければいくら正義のためといっても動くことはない以上、それは楽しく、ないし利益が導けなければならないし、同時に社会正義の実現というのは個人の利益パラフレーズになっているものです。


まとめますと、まず第一に求めているのは私と利害が一致する人々の最大公約数的な利益です。その意味では私に彼女が出来れば解決という風には考えていません。つまり、個人的な適応というのは二の次の問題です。

そして、その他の社会運動がそうであるように、その最大公約数利益のために、最大限楽しくなるようにやるということが問題になってきます。個人的な心的ホメオスタシスが無ければ社会運動を主宰する余裕が生まれるとは思えませんから、その部分も重要でしょう。

しかしそれは、社会運動によって解決するためであって、そこは枝葉にとらわれてはならないと私は考えています。