planet ギエディ・プライム

2009-01-20

無人島の話/ビジネス社会の厳しい選択/男性の規範

| 01:29

http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090116/p2

無人島という「出口のない状況」の中で、ただひとりの女性への「セックスの強要」が当然のように展開し、それを前提にしたなかでジーディー*1とやらをやらせる企業研修のきもちわるさ。

そのへんのことはid:sk-44さんのところでクールに整理されてるので参照↓

http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090119/1232368427

で、この論題を新入社員研修のGDで用いた、ということは、少なくともその場に女性は居なかった、ということですよね——もちろん。 え、違う?

女性がいたらしいということのひどさもさることながら、これ男性に対してもどえらいセクハラですよね……。

なんというか、性的搾取状況が前提されているがために、その前提そのものを問うことがあらかじめ禁じられているような空気がありそう。GDのゲームのルール的に。

「うん、一見『船を直した男』悪そうだよね。でもそんなベタな答えを俺が期待してると思う?」

「厳しい選択」を切り抜けて(きたであろう)セクシーなビジネスパーソンが、後ろで内定者たちを見ている。目を細めて微笑しながら。

ビジネスの場、それも一企業の内部では、多くの場合で前提状況そのものを問うことは禁じられている。形式上は禁じられてなどいないかのようになってるけど。「風通しはいい方が良い」という問題意識が共有されていても、実際に風通しを良くするための方法論まで完備されている職場というのは稀ではないかと思う。そこから新たな「状況」を作り出していけるビジネスパーソンなんて立志伝の中の人物であろうし、内定者研修ともなればなおさら難しい。「厳しさ」への順応を覚悟して臨む内定者たちにとって「甘い」とか言われるのはなによりも不本意だろう。

結局、男性的な性的表現にまつわるある種の規範が依然として健在なんだろうと思う。男性についてのジェンダー規範のうち、「女性には優しく」よりもおぞましい「(男性としての力の行使の一環として)女も征服せよ」みたいなのがまだまかり通っている。理想化された男らしさ、学校一番の女の子をはべらせるジョック。

今の時代、明示的に「男らしさ」を求められることはそんなにない気もする。以前読んだ本で、ボーナスが現金手渡しで、その日の晩に男性社員は全員連れ立って「会社御用達」のソープランドに行くのが儀式化している会社の話があったけど、ここまでなのは滅多にないと思う。しかし、「ビジネスにおいて要求される厳しい選択」の担い手としての男性像は未だ古来のジェンダー規範を参照しており、それに付随して性的な意味で力の行使もまた歓迎される。

私の観測範囲での話に過ぎないけど、男性正社員に対する結婚への圧力って、割と普通に見受けられる。「結婚できてこそ一人前」みたいな発想。理想化された人間像を無邪気に表明しているだけかもしれないけど、そこには「力を行使する男性」という規範が紛れ込んでいて、金・クルマ*2の獲得の一環に「女」が含まれてる感じ(「女も征服」)。これって要するに人として見てるというよりモノとして見てる言い方だから。

「船を直すから身体を差し出せ」という「契約」。別にこんなものビジネスでもなんでもないと思うんだけど、「性愛」を人格から切り離して消費できるという考え方=モノとして見る、に基づけば、性的搾取もビジネスの一言で済まされちゃうんだろうなと。

内定者研修の場でこの「思考実験」のもとで選択を強いられ、その過程でジェンダー規範を内包する「ビジネスの論理」を内面化せざるを得ない。十分に内面化してるぞ、ということを表明せざるを得ない。だからこそ男性陣はそのルールに忠実に、「女性の感情論を、ムリヤリ数の力と、論理で押し切った」んだと思う。本当にそびえ立つクソだなー。

*1:グループディスカッションのことらしい……ジェンダーディシジョンかと……

*2:さすがにこういう言い方は古すぎる気がするけど……

2009-01-11

チェルノブイリ以後

| 01:37

チェルノブイリ以後」という視点について考えてみたい。

これは、以前2008-05-23 - planet カラダンで書いたことでもあるんだけど、もっと深められたらと思っていたので。

しかし直視しなくてはならない。こうした大惨事において人道主義が直面する限界を。どす黒く口を開けて北半球を汚染する炉心にフタをせねばならない。あまりに高レベルの放射線量のため、ロボットという最適解を放棄し「バイオロボット」を動員せねばならない。そのとき私たちは「(おのおの個別性を備えた)比類なき人間」「生命の比較不可能性」という言葉とどう折り合いを付ければいいのか。いや違う、これは仮定の話ではなく20数年前に実際に行われたことだ。だから今、アウシュビッツ以後にしてチェルノブイリ以後の私たちが「比類なき人間」という理想を口にするとき、その言葉に豊かな内実を保証することは可能なのだろうか?

自己欺瞞について

ここでいう「自己欺瞞」は、「自分の良心に反する」というような意味。

となると「良心」っていうのはなんだ? ということになる。本当に「良心」なるものを信じていいのか? それはある種の「教義」ではないのか?

この疑問は重要だし、難問だと思う。「良心」はひとりひとりの内面の問題だから、それがどういう働きをするのかということをモノのように論じることはできない。ここについてうまく整理することはできないんだけど、とりあえずここではカント実践理性批判」で有名な「内なる道徳律」でごまかしたい。

 

「内なる道徳律」が意志を規定し、人は「すべき」を得る。共感や同情から他人に対して何か働きかけるとき、「こうしたい!」と思うからそうするはず。例えば、隣の席の人が消しゴムでも落として探してるとき、自分が先に見つけてたら教えてあげるなり拾ってあげるなりするとか。そして時に、そういう良心の声「こうしたい!」を裏切ることがある。

先日、そばを走り抜けて行った人が小さなハンカチみたいのを落としていった。持ち主は気づいてないでどんどん遠ざかって行く。その人が「どっかでハンカチ失くした!」とあとで気づいて困らないように、拾って追いかけるとか、大声で呼び止めるとかするべきだと思った。でも、私はなんだかすぐに体が動かず、なんだか行動を起こしあぐねている*1間に、持ち主は遠くなってしまってさっさとあきらめた。こんなハンカチくらいまあどうでもいいか、と勝手に自分を(自分の良心の声を)納得させて、ほっといた。これが自己欺瞞ということ。

「すべきでない」と思うことをする場合

そして、こういう場面のかなり極端な例を想定する。例えば、自分にとって特別に大切な人*2が重い病気で体動かないとかいうとき、できる限りの手助けをしたいと思うだろうし、実際にやると思う。そして、人への共感、ということが道徳律の大きな要素であると思われるから、赤の他人であってもそれを「なんじ」*3と捉えるならば、「特別に大切な人」へのと同様の対処を「すべき」と思うのではないか。いや、親しい人とそうでない人なら介入の度合いに程度の差はあるかもしれないから、ここでは対処の内容云々ではなく、根本的な方針として「(なんらかの)手助けをすべき」だけでいい。そしてこういう「すべき」を極度に一般化して裏返らせたものとして、究極の「すべきでない」が、「生/死」に関わるものとして出てくるだろう。つまり「見殺しにするべきではない」というような。

なにもわかってなさそうな幼児が崖に向かってよちよち歩いて行く。止めるも止めないも自由だけど、その自由の期限はまさにその幼児が崖から落ちて死ぬ瞬間までしかない。

しかしこれとは逆に、ある人たちを積極的に崖っぷちへ追い立てなければならない状況があった。それがチェルノブイリの事故処理。

4号炉のあった建屋周辺の清掃*4に、当初はロボットを使っていたが、あまりの高レベルの放射線量のためにロボットは動かなくなった。そこで予備役の若者が大勢投入された。

放射線量と人的被害の相関関係について不明な点が多かったり、また現場の末端まで十分に周知されていなかったにしても、やはり極めて危険な任務であるということは十分に自覚されていた。送り出す側にも送り出される側にも。だからこそ鉛の装備を用意したり、一人の一回当たりの作業時間を数分間に決めるなどした。

こういうあまりにも危険な任務が必要な状況と、そこに送り出す側の葛藤を思うとき、この事故処理は倫理的にも大きな課題を突きつけたし、歴史的にも重大な出来事だったと思う。

あんなところに人を送り込むべきではないということは、ごく当然の良心の声として感じられたはずだけど、それをもっと「大多数の安全のため*5」にとねじ伏せないといけなかった。



(つづく)

*1:ほんの一瞬のうちのことだけど

*2:恋人とか親兄弟とか

*3:ブーバーの「われーなんじ」の観点を唐突に利用

*4:爆発で飛び散った汚染物質の除去

*5火災の続く炉心からでる放射能が北半球を広範囲に汚染していた